IMA コラム
都市づくり研究所 Debut!
当事務所は昭和22年に創業し、都内、首都圏で多くの建物設計の実績を重ねてきました。
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Vol.01 高台住宅地と結ぶ立体防災拠点施設の開発研究
―復興都市のまちづくりを先導するモデルプロジェクトとして
「立体都市公園制度」を活用した防災拠点施設の開発研究に取り組みます―
東日本大震災以降、復興計画として住宅地の高台移転が多くの人によって語られ、津浪で大きな被害を受けた低地部から高台への集団移住を発想すること自然であり、確実な手段であると受けとめられてきました。移転先用地の確保のための丘陵地開発適地の選定も行われようとしています。しかし生産活動・経済活動の中心が低地部に持続的に形成されるとすれば、経済的基盤の確保なしに丘陵地の開発が先行するのは課題が多いと思われます。
2011年8月4日付「毎日新聞」の夕刊に、少し気になる二つ記事が文化欄に並んで載っていました。それは高台移転の難しさを考察した「津波と村」の複刊を紹介しながら柳田国男の視点から「何をもって復興とするか」と問いかける石井正巳氏の記事と、建築家原広司がアクティビティ・コンターと名づけた活動等高線を無視して物理的等高線だけで都市を創ってはならないと書いた鈴木博之氏の「等高線の思想」という記事です。
この記事に書かれている両氏の指摘は至極自然で的を射ていると思います。被災者の生活の安全確保を最優先に、津波から守られた高台移転を進めるとしても、生産・経済活動の再開が急がれる低地部の防災インフラ整備を並行かつ一体的に進める必要があります。日本の都市開発には、丘陵地開発の長い歴史がありますが、今こそ「丘のまちづくり」で培った等高線を動かす技術で、丘陵地から低地に連なる拡がりを持った現実の地形を、両氏が指摘する視座に立って見直してみましょう。丘陵地と低地部を分離することなく、連続性を強化して一体化した防災都市づくりに取り組むべきと考えます。
当社が参画している「復興都市研究会」(事務局;昭和株式会社)では、高台住宅地と日常的な都市活動の場を結ぶ結節点周辺を、日常的な防災活動と緊急時の情報発信の中心となる防災拠点・地域交流ゾーンとして先導的に整備することを提案し、復興都市づくりモデルプロジェクトとして「高台住宅地と結ぶ立体防災拠点施設の開発研究」に取り組んでいます
この研究は、UR都市機構の多摩ニュータウンの再生調査で、㈱都市設計工房の作業に協力して当社が提案した「丘の上にある団地の玄関口でのまちのバリアフリー化を推進する施設建設計画」をベースにしていますので、本稿ではその概要と提案のヒントになった「立体都市公園制度」について説明し、「復興都市研究会」の現在の取り組み状況について報告します。
グランビル・アイランド(カナダ視察報告)
バンクーバーの南部にあるグランビル・アイランドは不思議な島である。「島」といっても一部で陸続きとなっているのだが、工場のバラックのような建物をそのまま使ったもので、上には高架道路が走り、街の中には「現役」のコンクリート・プラントが稼働し、アスパラにデザインされたミキサー車が行きかう。そんなショッピングセンターなのである。 |
Minha casa do carvalho
9月に始まった自邸の改修工事がようやく終わったので公開します。
限られた予算の中で、一番こだわったのが床材です。
近年、日本の住宅のフローリング普及率は80%を超えると言われている中、そのほとんどが複合フローリングを使用しているそうです。
複合フローリングは色味や機能(傷の強さや遮音性など)、価格帯のバリエーションが豊富で、施工が楽というメリットがあります。
しかし、プラスチックで処理した単板などを面材として用いたものなので、木質がほとんどないのです。
今回、自邸に使用したのはオークの単層フローリング。単層フローリングとは文字通り基材が1層のものを言います。一般的に無垢材と呼ばれているものです。
無垢材は乾・湿による狂い(変形)が大きい事から日本ではまだまだ需要が少ないようですが、天然材ならではの風合いがあり、経年変化によってより深い趣を演出できます。
海外文学のススメ
すっかり秋も深まって肌寒い日が続きます。みなさんどんな秋をお過ごしですか? 食欲の秋・スポーツの秋・読書の秋・芸術の秋と、気候が過ごしやすい事から昔から様々な「秋」が語られています。今回は「読書の秋」についてお話したいと思います。 なぜ「読書の秋」と言われるようになったのかは様々な説があるそうですが、通例では中国の韓愈(かんゆ)という人が遺した、「燈火親しむべし」という言葉に有るようです。 私は本を読むのが好きで、最近は主に海外で書かれた小説を読んでいます。 |
あさひ山展望公園物語―「街づくり」は「待ちづくり」―
これは、その時まではその日が歴史に残る衝撃の日になるとは誰も思っていなかった3月11日の朝に、埼玉県飯能市内のローカル紙が『あさひ山展望公園』がまもなく開園すること伝えた記事です。この公園は、飯能市南部で「ビッグヒルズ」と総称されるUR都市機構施行の開発三地区の一つ、南台第二地区の中にありますが、機構の前身の公団時代に関わった公園誕生前史を紹介しましょう。
南台第二地区が事業準備段階の20年も前の話ですが、地図に「朝日山」という名称と標高が記された地区内に盲腸のように張り出した小さな独立峰のような山があり、その山を残すか否かが議論になっていました。「山をカットして平坦地を増やし使い勝手の良い公園に!」vs[見晴らしの良い山を残して自分の住むまちを眺める丘の公園!] 前者の意見が優勢で、「朝日山」を残すためには、何か『永遠に残る理由づけ』が必要でしたが、地形図を眺めるうちに、入間川を挟んで対峙する天覧山・多峯主山と龍涯山・朝日山―四つの山を廻るハイキングルートを思いつき、当時万博をはじめ数々のビッグイベントを手がけておられた南條道昌さんに相談しました。
被災地へ
6/11(土)から4日間、東日本大震災のボランティア活動のため、岩手県に行った。地震がおこってからずっと行かなければと思っていた。人生初のボランティアである。GWに行くつもりが都合により今回となった。早く行かないとかたづけがすすみ、手伝うことがなくなるのではないかと思ったが、被害はそんな中途半端な規模ではなかった。3ヶ月たっても手付かずのがれきが、至るところにあった。
ボランティア活動は、岩手県遠野市を拠点に大槌町、釜石および陸前高田市でおこなった。
遠野は、柳田国男の遠野物語で知られた民話の里であり、東北のふところみたいなところだ。
ここでは「遠野まごころネット」というボランティアセンター(VC)が、社会福祉協議会の建物を臨時に借りて運営されている。老若男女あわせて150人程度いる。女性も2割程がんばっている。兵庫県や新潟からの参加者が多い。大震災を経験しているからか、みな真剣だ。朝7:15に懐かしいラジオ体操をやって、7:30から各地のニーズにあわせて班分け、8:00バスにて出発。片道1時間半かかる。昼は1時間休み、休憩もあり14:30には作業終了。
事故やケガを防ぐには、これぐらいが適当なようだ。16:00にはVCにもどる。作業参加は、基本的に自由。きついときは、無理せず休むよう言われる。倒れられると困る。内勤での事務仕事も必要とのこと。長期で参加しているひとは、みずから休日を決め観光や温泉に行ったりして、のんびりと心と体を休ませる。
IMAアーカイブ-2(1986年編)
久しぶりに「IMAアーカイブ」を。今回は「弊社の顔」、M氏にインタビューします。1986年に竣工したアークヒルズについて語っていただきました。
Q1:M氏と言うと「アークヒルズ」からスタートされた印象があります。弊社にとっても初めての大規模な再開発だったと思いますが、どのような苦労がありましたか。
全然知らないんだなあ。僕がアークヒルズを担当したのは現場だけなんだよ。だから設計段階に関しては全然知らないんだよね。
えっ、そうなんですか!企画が流れそうなんですが…。気を取り直して進めます。まずは苦労話からお願いします。(笑)現場はどのような感じでしたか。
限られた時間内で施主、施工者、他の設計者との調整をしていたから本当に大変だったよ。とにかく変更が多くてかなりの時間を設計変更に費やしたね。設計段階の詳細図はほとんど使い物にならなかった。設計しながら作っていたという感じだったよ。
Q2:現場ではどういう担当でしたか。
僕は高層部の内装担当だったから、建具や内装材の納まりは特に気を使ったね。主だった建具の納まりは今でも覚えているよ。
Q3:アークヒルズで最も気に入っているところはどこですか。
僕はアークヒルズを「仕立ての良いオーソドックスなジャケット」だと思っているんだ。当時はポストモダン全盛期だったけれど、この建物には派手さはなく非常にシンプルだよね。今ポストモダンの建物を見ると古さを感じてしまうけれど、アークヒルズにはそうした古さは感じないと思うんだ。そうした「時を経ても古びない上質さ」が気に入っているんだ。
そして当時は小さかったみどりも大きくなり周辺環境が整ってきて、足元は居心地の良いヒューマンスケールな「街」になっていることも上質さを加えていると思うね。